私は、もうざっくり42年生きてきた。人生の半分を生きてきた。正直真新しいことなどそんなないと思っちゃってる自分がいる。そうじゃなくても、今までの培ってきた人生経験でそれを乗り越えられると思っている。たとえば、なにか新しい映画が公開されるとわかっていても、その映画はだいたいあんな感じだろうと予測し、まるでもう観たかのようにそれに蓋をしてしまう。その映画は全く今までとは違うものだとしても、自分の予測の方が評価を上回り、行動に制限をする。そのおかげで無駄な行動は減り、時間を浪費しないし、お金も浪費しない。ただそのある程度分かりきってるものを勝手に解釈し、蓋をしてしまうことは、非常に危険だなと最近感じてきた。自分の最近の行動を振り返ると、平日仕事の日は朝早起きし、なるべく早く帰り、1週間仕事に支障がないようにほぼ完璧に家事をこなす。休日は、朝遅く起き、腹が減ったらコンビニでほとんど決まった弁当を食い、好きなyoutuberをみて時間を持て余すのが日課であり、ある程度youtubeに飽きたら、今度は外食をしにいつもいく店に行き、いつもと同じご飯を食べる。おいしいとわかっているものを食べる。改めて文章にすると当たり前のことなんだけど、それってちょっと怖いというか、機会損失だよねと思ってきた。
初体験独自の新鮮な感情を肌で感じよう
そんな機会損失はやめようと思い、先日シラフで見知らぬ中華料理屋で夕飯を食べてきた。まあまあお客さんが入っているそこの中華屋は、当たり前なんだけど飲むのが前提というか、居酒屋中華という感じであった。だから、俺が餃子、レバニラ炒め、ライスを頼むと、「お飲み物は何にしますか?」と聞いてきた。私はいま断酒中で、特に頼みたいのがなかったので「いらないです」と答えた。本来ならお酒を頼むのが普通だったのかもしれない。すこし新鮮なやりとりだった。料理が来る間、いつもならビールを先に飲みyoutubeでも観ながら待っているが、ドリンクを頼んでいないので料理が来るのがとても遅く感じた。暇つぶしにあらゆる席の酔っ払いの人間観察をしていたが、ほぼ飲むのがメインで特に料理は、二の次という感じだった。そうこうしているうちに、料理が到着。全体的な感想は、そんなに美味しくないである。シラフだと余計に気づいてしまったのだが、全てはビールがあっての料理だったってことがわかった。酔っ払ってないから、味に敏感だし、うるさい舌になっている。また来たいとは思わなかった。では何が言いたかったかというと、シラフで行ったことのない店に行けば、完璧な自分のレビューを作れるということである。この経験は、ある程度わかりきっていることである今までの私の考え(どんな中華料理屋でも大概美味い)を否定してくれたのである。
経験のない配送先は、緊張感を生む
私の職業はトラックドライバーであり、トラックドライバーは大まかに分けると「固定ルート便」と「フリー便」がある。固定ルート便は、毎日同じ配送先に行き、荷物を届ける。特に大きな渋滞もなければ時間も同じように進みドライバーにとっては慣れれば不安がない、安心して仕事ができる。フリー便は、固定ルートで運行している人の休みの日に代わりに運行したり、新しい営業先に突発的に配送したりする、字のごとくフリーで動いていくドライバーである。私は今の会社に勤めて2年目になるが、2年目を境にフリー便になった。今までは固定ルート便で運行していたので、毎日が同じことの繰り返しで、時間の感覚も熟知していたので楽といえば楽だった。しかしこれはこれで、何にもドライバーとしての成長を感じていないことに気づき、上長と相談しフリー便になった。フリー便になってからは、圧倒的に精神的プレッシャーが増えた。いつもと違うトラックを運行し(中型から大型)、いつもと違う配送先、配送ルートを自分で考える。そのほかに荷物の積み方、下ろし方、その先々での倉庫のルールを知る必要あったり、、、苦労の連続だった。しかし、日に日に経験が増すとある程度のフリーの動き方に慣れていくことができた。そして自分の成長を感じることができ、自分のレベルが上がっていくことが体感でき自信がついた。結局、フリー便になり、新しい経験をすることによって仕事のやりがいも増していった。
新しい挑戦を阻むのは、苦労が成果を超えてしまうこと
やったことのないことをやること、それを新しい挑戦とすると、ずっとそれをしていけば人生充実する。それが答えなのだが、それが簡単ではない。何度も挑戦し、何度も見たことないすばらしい景色をみてきた人は、それと同時に圧倒的な苦労を味わっていることもその人は知っている。要するに、挑戦した結果を成果とするならば、成果は苦労を超えてほしいのだが、苦労が成果を超えてしまうと、その苦労を今後する気になれなくなる。人間は頭がいいので、そんな苦労するならもう挑戦をしない方がいいという考えになる。というか私はそう感じてしまう。実際挑戦をし、苦労をしてないのにも関わらず、苦労を経験の物差しで測り、損得勘定で挑戦するか考える。冷静に考え、成果が苦労を超えるなら、やっと重い腰が動いていく。そして体力気力の充実、また生活している中での余裕がなければ圧倒的に挑戦の扉は重くなっていく。
これから経験する苦労を深く見積もらず、気力体力を充実させ、コンフォートゾーン(快適空間)から抜け出していくこと
人生半分を生きれば、何が危険で何が快適かわかる。それが自分が積み上げてきた経験値である。ただそれと馴れ合いにならずに生きていく。頭ごなしに、経験や行動をしていないのに何かを否定しない。新鮮な感情を大事にしたいなら、めんどくさいとおもわず体を動かしていく。これからあと半分の人生、私は成果ー苦労が0以上でなければ挑戦しないという、ダサい男にならずに苦労の量が成果を超えても前にでて挑戦する男になりたい。コンフォートゾーンから少しはみ出て意地を張り、疲れたらコンフォートゾーンにもどる。それを繰り返す。文章でここに書くのは簡単。今年はもっと行動していく、挑戦していく自分になる。
終わり
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